最高の天気。友達の家で遊ぶ予定があり、朝から移動。近い。
友達の家で友達が作ったタコスを食べたり、移動して公園でまたタコスを食べたりする。最高の風があり、最高の日陰があった。公園でなら、10人くらいの集団は小集団に過ぎない。デイキャンプを楽しむテントがいくつか立っていて、またテントが欲しくなった。日が暮れだすと蚊に襲われ始めたので、解散したあと、夢庵で友達と夕食を食ってから帰った。
友達の引っ越した家で友達の家族とその暮らしをかいま見た。結婚というものに憧れがあるとすれば、こういう意味だと素朴に感じる。したがって、公園での会話も結婚とか子育てとかそういう話題になり、なんかこうすごく人生だった。そして自然、自分の人生観と向き合う形になった。
友達と話していて、「エモーショナルになってるよこいつ」(SEEDA vs 晋平太)と自分に対して思ってしまったので話すのを中断した話があり、それは話さないまま解散になってしまったので、ここに書いておく。まず、結婚とは、今までの人生における相手への関与・相手からの関与を不可逆のものとしていったん肯定するということ、それの制度化されたものだとぼくは思っている。それが誓約の形式を伴うのはなんら不思議なことではない。なぜならそれは(本来固定できないはずの)解釈を固定しようとする行為だからだ。つまり、あらかじめ結婚するべき二人がいて結婚するのではなくて、彼らが「最初から私たちは結婚するべき二人でした」と事後的に・自主的に・被運命的に・パフォーマンス的にいちど定義しなおすことによって、結婚が成立する。
もう一度整理。結婚とは、「今までの人生における相手への関与・相手からの関与を不可逆のものとしてパフォーマンス的に肯定する」制度である。だが、人生において、可逆的な関与などあるだろうか? ないといってもいいし、あるといってもいいかもしれないが、ぼくは、究極的にはない、と考えている。赤ん坊が、かれが生まれて11か月になるころに、泣きそうになるたびにたくさんたくさん構ってもらったことを将来忘れてしまったとしても、かれに与えられた愛はきっと赤ん坊を強くするだろう。少なくとも、私たちはそう信じたい。信じるべきだとさえ思う。信じることしかできないとも言う。いや、とりあえず今は、信じることに決めた、とさえ言えばいいのだ。それこそが、「パフォーマンス的肯定」の意味だ。この場合、それで実務上の問題はきれいになくなる。それが結婚だ。この点で、ぼくにとって結婚は楽観的でも悲観的でもない。おのおのの人生はつねに多義的だが、あの一瞬に「そう信じることに決めた」のだという事実をピン止めすることでしかなく、結局、結婚それ自体の効力はいま現在どれだけ信じられるのかに依拠していると思う。というか逆に、結婚生活それ自体が不安定になったときはじめて「信じることに決めた」ことが最初からパフォーマンスによって支えられていたことが前景化してくるのだ。
そしてぼくは自分の人生のなかの他者をできるだけたくさん覚えておきたいと感じていることが分かったのだった。ぼくは人生の重荷を、できるだけたくさん背負って歩いていきたい。もらったものも、負わされたものも、下ろすことができない。もう、それが人生というものなんだと信じこんでしまっている。ようは、はなから信じたくてたまらないのだ。そうすれば、すくなくとも心もちで解決できる問題はいっさい解決し、ぼくは善へ、力へ、愛へまっすぐに向かえるようになるのではないだろうか? このあまりにも形式的な楽観主義、それ自体をぼくは信じたいと感じている。現実はおそらくそう単純ではないとしても。そしてすくなくともぼくは今日そう信じようと思ったことを素晴らしいと思って、それをここに記録したいと思っている。重要なのは、今はただそれでいい、ということだ。